2026.10.21
執筆日:2026年10月21日
執筆者:弁護士 三 谷 岳 大
本判決(東京地裁令和4年5月13日判決)は、派遣・紹介を行っていたIT会社が、退職後に「退職後1年間の競業避止義務」を定めた秘密保持契約書(本件合意書)に署名・押印した元従業員(システムエンジニア)に対し、約定損害金等の支払を求めた事案(甲事件)です。また、元従業員側からは未払賃金等の支払が求められました(乙事件)。
裁判所は、元従業員が合意書の内容を認識して署名・押印した事実自体は認めたものの、会社側の保護すべき利益(独自ノウハウ等)が明らかでないこと、禁止される転職等の地域・職種範囲が広範すぎること、代償措置が講じられていないこと等を理由に、禁止期間が1年間にとどまることを考慮しても本件競業避止特約は公序良俗に反し無効(民法90条)であると判断し、会社の損害賠償請求を棄却しました。一方、会社に対し、未払賃金36万5,150円及び退職後の年14.6%の遅延利息の支払を命じました。
書面で形式的な合意を取り交わしていても、守るべき企業利益や代償措置が不十分であれば競業避止義務は無効となること、また、退職後に未払賃金が残った場合には、賃確法に基づく年14.6%の遅延利息が発生し得ることを示す、企業労務において極めて実務的価値の高い判例です。
※乙事件は東京簡易裁判所に少額訴訟として提起され、その後に提起された甲事件と併合された上、東京地方裁判所に移送されました。
原告会社は、主にシステムエンジニア(SE)を企業に派遣・紹介する会社です。被告は中国国籍を有し、日本の大学院で学んだ後、日本語・中国語の翻訳業務を経て、令和元年5月に原告会社と労働契約(当初月額30万円、後に月額35万円に増額)を締結したSEです。
被告は令和元年11月から常駐先(a社)においてSEとして稼働していましたが、令和2年8月頃、同年9月末日をもって退職する旨を伝えました。被告は在職中の令和2年9月20日に別会社(b社)との業務委託契約を締結し、退職翌日の同年10月1日から同契約に基づいて稼働を開始し、引き続きa社に通っていました。そして原告会社を退社した後である同年10月9日、原告会社にて退職証明書を受領すると同時に、以下の内容が含まれる「秘密保持契約書」(本件合意書)に署名・押印しました。
■ 第4条(競業避止義務の確認)
退職後1年間、会社と取引・客先に関係ある事業者、取引・競合関係にある事業者への就職や、競業事業の開業・設立を禁止する。
■ 第6条
違反した場合、直近3か月分の給与平均額に相当する賠償金を支払う。
原告会社は、競業避止義務違反(債務不履行)または違法な競業行為(不法行為)に基づき、約定賠償金・調査費用等として合計139万8,331円の支払を求めて提訴しました(甲事件)。一方、被告は、令和2年9月分の未払賃金及び交通費計36万5,150円等の支払を求め、東京簡易裁判所に少額訴訟を提起しました(乙事件)。その後、会社側が提起した甲事件と併合され、東京地方裁判所に移送されました。
本件では主に以下の点が問題となりました。
被告(元従業員)は「日本語の理解が十分でなく、第4条以降を読まずに署名した」と主張しました。
しかし裁判所は、被告が日本の大学院で学び、日本語と中国語の翻訳業務に従事していた経歴から、十分な日本語理解能力を有していたこと、書面の文字の大きさ等に差がなく容易に認識できたこと、理解できない条項があるのに確認せず署名したという主張は不自然であること等を挙げ、「被告は合意書の内容を閲読・理解した上で署名押印した」として、競業避止合意自体は成立した(争点①について原告の主張を採用)と認定しました。
合意の成立を認めたものの、裁判所は以下の規範を提示し、本件特約を公序良俗に反し無効(民法90条)と判断しました。
【裁判所の示した判断基準】
従業員の退職後の競業避止義務を定める特約は、従業員の再就職を妨げて生計の手段を制限し、職業選択の自由に制約を課すものである。そのため、①使用者の守られるべき利益、②従業員の不利益の内容・程度、③代償措置の有無・内容等を総合考慮し、その制限が必要かつ合理的な範囲を超える場合には無効となる。
具体的には以下の事実を認定・当てはめました。
結論として、禁止期間が1年間にとどまることを考慮しても、必要かつ合理的な範囲を超えるものとして無効と結論付けました。
特約が無効である以上、競業避止義務違反による債務不履行は成立しません。また不法行為の成否についても、業務委託契約の稼働開始が退職後で在職中の原告業務を害していないこと、原告会社の受注業務と競業するものとも認められないこと、退職後の職業選択の自由や生活維持の必要性などから、「自由競争の範囲を逸脱した違法な競業行為とはいえない」として会社側の不法行為主張も退けました。
乙事件において、裁判所は被告の令和2年9月分の未払賃金及び交通費計36万5,150円の支払義務を認めました。
さらに、退職後の賃金未払いに対しては、賃金の支払の確保等に関する法律(賃確法)第6条1項に基づき、退職後の賃金支払日の翌日(令和2年10月16日)から支払済みまで、年14.6%の遅延利息の支払を原告会社に命じました。
本判決は、退職時の競業避止誓約書や合意書の運用において、企業側が陥りがちな重大な誤解を浮き彫りにしています。実務上、特に以下の点に注意が必要です。
多くの経営者や人事担当者は、「退職時に誓約書へ署名・押印させれば、競業他社への転職を阻止できる」「約定の損害賠償金を請求できる」と考えることが多いです。
しかし、裁判所は従業員の「職業選択の自由」を重要視します。本判例のように、たとえ元従業員が内容を理解した上で署名した事実が認められても、会社が一方的に作成した網羅的な合意書で、対象範囲が広く、代償措置もない場合には、裁判で効力を否定されるリスクがあります。
特に派遣型SEやSESのように、従業員が常駐先の指示に従って業務を行う事業形態では、派遣元・所属会社自身にどのような独自のノウハウや営業上の利益が存在するのかが問題となります。本件でも、裁判所は、原告会社独自のシステム開発等のノウハウや、それを被告に提供した事実が認められないことを重視しています。常駐先への直接転職や別会社経由での常駐を防止したい場合は、単に「競業禁止」と書くのではなく、営業秘密の持ち出し防止や、自社顧客・派遣先への積極的な引き抜き行為の禁止など、焦点を絞った規定に設計し直す必要があります。
代償措置が全くないことは、競業避止特約の有効性を判断する上で不利な事情となります。本判決でも、期間が1年間にとどまることを考慮してなお、代償措置がないことなどを理由に無効と判断されています。競業避止義務を有効にするためには、「競業避止手当の支給」「退職金の加算」などの代償措置の設計が重要な考慮要素となります。
また、元従業員との競業をめぐって紛争になった場合でも、それとは別に賃金の支払義務は適切に処理する必要があります。退職後の未払賃金には賃確法に基づく年14.6%という高利の遅延利息が付加されるため、不適切な対応により会社側が思わぬ損失を被る結果となりかねません。
自社の情報や取引先を守りつつ、法的トラブルや無効リスクを回避するために、企業は以下の具体的行動を検討するべきです。
退職時に元従業員から「競業避止合意書」を取得していても、保護すべき企業の独自利益が存在しない場合や、対象範囲が広範すぎる場合、代償措置がない場合には、公序良俗違反(民法90条)により無効と判断されることがありえます。
有効な競業避止義務を構築するには、自社の事業特性に応じた適切な対象の絞り込みと代償措置の設計が不可欠です。また、元従業員との競業をめぐる紛争が生じている場合でも、賃金の支払いを安易に留保すると、年14.6%の遅延利息が発生する大きなリスクを背負うことになります。
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