2026.10.7
執筆者:弁護士三谷岳大
執筆日:2026年10月6日
本判決(東京地裁令和7年4月30日判決)は、採用時に賃金額等を記載した労働条件通知書や雇用契約書などの書面を作成・交付せず、その後に従業員から繰り返し書面の作成を求められたにもかかわらず応じなかった会社が、自宅待機命令後の出社命令に応じなかったこと等を理由に行った解雇の有効性等が争われた事案です。
裁判所は、労働条件(賃金額)をめぐって既に紛争が生じていた状況において、従業員が改めて就労を開始するにあたり労働条件を明示した書面の交付を求めたことは正当な要求(労基法15条の趣旨に沿うもの)であり、会社がこれに応じないまま行った解雇は客観的合理的理由を欠き社会通念上相当と認められないとして、解雇を無効と判断しました。さらに、労働条件を書面で明示するよう繰り返し求められ、労基署から労基法15条違反の是正勧告まで受けていたにもかかわらず、書面明示について対応しないまま漫然と解雇に及んだとして会社側の不法行為を認め、逸失利益140万円や未払賃金等の支払(計約154万円余り)を命じました。
中小企業において「労働条件通知書を作成していない」「採用時の提示や途中の条件変更が口頭のままになっている」というケースは少なくありませんが、労働条件の不明確さを放置したまま行った解雇や業務命令が法的リスクを及ぼすことを明確に示した判例です。
裁 判 所 : 東京地方裁判所(民事第36部)
判 決 日 : 令和7年4月30日
事件番号等 : 令和4年(ワ)第19879号
事 件 名 : 損害賠償請求事件
審 級 : 第1審判決
原告(理容師)は、令和3年10月中旬、被告会社との間で期間の定めのない雇用契約を締結し、被告が運営する理容室店舗で勤務を開始しました。採用面接時には履歴書の提出や理容師免許の提示を求められず、労働条件通知書や雇用契約書といった書面も作成されませんでした。
就労開始後、月額賃金について「35万円」と認識していた原告と、「試用期間を経て33万円(試用期間は日給1万2,000円)」と主張する会社側との間で認識の相違が生じました。原告は会社代表者や店長に対し、面接時の条件と異なる旨を伝えるとともに、労働条件を明示した雇用契約書等の書面作成を繰り返し求めましたが、会社側はこれに応じませんでした。
令和3年12月23日、客との施術内容をめぐる苦情トラブルが発生した際、会社側は原告に無期限の自宅待機命令を発しました。その後、令和4年2月、会社側は原告に対し出勤を命じ(本件出勤命令)、併せて理容師免許の提示や氏名の漢字等の明示を求めました。これに対し原告は、トラブル再発を防ぐため労働条件を明確にした書面の作成・交付を求め、双方が要求に応じないまま膠着状態となりました。
令和4年3月16日、会社側は労働基準監督署から「労働基準法15条違反(書面による労働条件の明示がないこと)」等の是正勧告を受けました。しかし会社側は書面交付に応じることなく、同年3月23日、「出勤命令に応じないこと」「理容師免許の提示がないこと」「氏名を明らかにしないこと」「勤務態度不良」を理由として原告を解雇しました(本件解雇)。
原告は解雇の不法行為該当性に基づく損害賠償請求(逸失利益・慰謝料計260万円)や未払賃金・交通費の支払を求めて提訴しました。
裁判所は、会社が挙げた解雇理由(出社命令不服従、理容師免許・氏名漢字の未提示、勤務態度不良)を検討した上で、以下の事情を指摘して解雇は客観的合理的理由を欠き、社会通念上相当と認められず無効と判断しました。
裁判所は、会社側が原告から書面作成を繰り返し求められ、かつ労基署から労基法15条違反の是正勧告を受けるに至ったにもかかわらず対応しないまま漫然と解雇に及んだことから、解雇は不法行為を構成すると認めました。
損害額については、解雇後の手続や再就職活動の状況等を踏まえ、逸失利益として賃金4か月分相当の140万円を認めました(慰謝料請求は逸失利益の賠償で賄えない損害の立証がないとして棄却)。
結論として、未払賃金・損害賠償等を含め合計154万5,634円および遅延損害金の支払を会社に命じました。
法律相談や顧問先支援の現場で感じることとして、中小企業において「採用時に労働条件通知書を作成・交付していない」、あるいは「採用時には作ったものの、その後の労働条件変更時に書面を作り直していない」というケースが多いのが実情です。
〇 口頭での条件提示・放置が引き起こすリスク
多くの経営者は「面接で口頭で説明したから大丈夫」「お互い了解しているはずだ」と考えがちです。しかし、時間の経過や人間関係の悪化により、「聞いていた金額と違う」などのトラブルに発展することがあります。
本件のように、すでに労働条件をめぐる紛争が生じ、従業員が合理的な理由から書面明示を求めている場合には、その要求に応じないまま命令不服従を理由に処分・解雇を行うと、その有効性が否定されるリスクがあります。
〇 労基署の是正勧告を軽視することの危険性
本件において会社側は、労基署から労基法15条違反の是正勧告を受けながらも書面の交付を行わないまま解雇に及んでいます。裁判所はこの点を厳しく捉え、「漫然と解雇に及んだ」として会社側の不法行為責任(損害賠償責任)を認定しました。労基署からの指摘や是正勧告を放置したまま労働者に対して不利益な処分を行うと、通常よりも会社の違法性・悪質性が高く評価されるリスクがあります。
労働条件のトラブルを防ぎ、無効な処分や賠償リスクを回避するために、企業は以下の具体的行動を検討する必要があります。
〇 採用時の労働条件通知書(雇用契約書)の交付を徹底
入社前に、賃金(基本給・手当・計算方法)、労働時間、休日、契約期間等の法定明示事項(労基法15条・同施行規則5条)を網羅した書面を作成します。
〇 重要な労働条件変更時の書面作成・改定の徹底
試用期間から本採用への移行、賃金額の増減、職種や勤務地の変更など、重要な労働条件を変更する場合には、後日の紛争を防ぐため、口頭で済ませず、変更内容を記載した合意書等を作成して書面に残します。
〇 従業員から書面交付を求められた場合の迅速な対応
労働者から「労働条件を書面で示してほしい」と要求された場合は放置せず、すみやかに現状の労働条件を整理・記載した書面を作成して開示・説明します。
〇 業務命令・自宅待機命令を出す前の適法性確認
自宅待機を命じる場合はその合理性・必要性を検討し、会社の都合による待機であれば休業手当(労基法26条)や民法上の賃金支払義務(民法536条2項)が生じることを前提に対応します。
〇 労基署からの是正勧告に対する真摯な是正手続
是正勧告を受けた場合は、指定期日までに速やかに是正措置を講じ、是正報告書を提出します。指導を無視したまま従業員への処分を行うことは絶対に避けます。
採用時の労働条件通知書等の未交付や、その後の重要な労働条件をめぐる認識の食い違いを放置することは、単なる行政上の労基法違反にとどまらず、後に生じる解雇や業務命令の有効性をも根底から揺るがす重大なリスクとなります。
裁判所は、労働条件の書面提示に応じない会社側が行った解雇を無効とし、不法行為に基づく損害賠償責任を認めました。日常的な労務管理における「書面の作成・更新」がいかに重要であるかを認識する必要があります。
オクトパス法律事務所では、雇用契約書・労働条件通知書の作成・チェック、就業規則の整備、従業員との労働条件トラブルや解雇問題への対応について、豊富な実績に基づきサポートしております。労務管理に不安をお持ちの企業様は、お気軽にご相談ください。