2026.10.14
執筆者:弁護士 三谷岳大
従業員株主が退職した場合に、保有する株式の全部を取得価格で会社に譲渡する旨の覚書は有効なのでしょうか。
東京地方裁判所令和6年4月25日判決(令和4年(ワ)第8590号)は、退職した元従業員株主2名が、自らが引き続き会社の株主であることの確認を求めた株主権確認請求事件です。
裁判所は、原告2名について、遅くとも平成21年10月26日頃までに、退職等により従業員の地位を失った場合には、その時点で保有する株式の全部を取得価格で会社に譲渡する旨の合意が成立していたと認定しました。
そのうえで、会社法136条の譲渡承認請求制度に反するとの主張、公序良俗違反、株主平等原則違反の各主張をいずれも退け、元従業員らの請求を棄却しました。
公序良俗との関係では、対象株式が譲渡制限株式であり元々市場性がないこと、株式の価値が取得価格を下回った場合でも取得価格による譲渡が保証されていること、その後相当期間にわたり配当が行われていたことなどが考慮されています。
もっとも、本判決はあくまで本件の具体的事情に基づく判断です。「退職時には取得価格で会社へ株式を戻す」と定めた覚書であれば、常に有効になるというものではありません。
裁 判 所 : 東京地方裁判所
判 決 日 : 令和6年4月25日
事件番号等 : 令和4年(ワ)第8590号
事 件 名 : 株主権確認請求事件
結 果 : 原告らの請求をいずれも棄却
被告は、不動産売買等を目的として平成20年に設立された株式会社です。
取締役会は設置されておらず、定款上、株式を譲渡するためには取締役の承認を要するとされていました。発行済株式総数は1万4000株でした。
原告2名は、いずれも被告の従業員であると同時に株主でもありました。
原告X1は平成20年に入社し、令和3年5月31日に退職しました。退職時の保有株式は800株でした。
原告X2は平成21年1月に入社し、令和3年11月30日に退職しました。退職時の保有株式は280株でした。
被告の代表取締役Aは、平成21年10月頃、従業員株主との間で株式の取扱いを定める覚書を作成することとし、原告X1に対して覚書のひな型を従業員株主に配布し、署名押印を得るよう指示しました。
その覚書には、従業員が株式を引き受けた後、退職等によって従業員の地位を失った場合には、
会社が、その従業員が株式を取得した価格で全株を買い取る
という趣旨の条項が設けられていました。
なお、覚書上は、「取締役会の承認がある場合」はこの取扱いから除外するとされていました。
もっとも、被告は取締役会非設置会社であったため、裁判所はこの部分について、「取締役の過半数の承認がある場合」を意味するものと解釈しています。
原告らは、退職に際して取得価格による株式譲渡には応じませんでした。
令和4年1月31日には、自らが保有する株式を一般社団法人bへ譲渡することについて、会社法136条に基づく譲渡承認請求を行いました。
これに対し、被告会社は覚書に基づき、以下の金額で株式を取得する旨を通知しました。
※ 原告X1の800株を610万円
※ 原告X2の280株を242万5000円
さらに、令和4年2月11日の臨時株主総会において自己株式の取得を決議し、同月14日、原告らが代金を受領しなかったことから、それぞれの買取代金を供託しました。
原告らは、自らがなお会社の株主であるとして、株主権の確認を求めて訴訟を提起しました。
本件で大きく争われたのは、次の2点です。
原告らは、覚書が存在していたとしても、その対象は覚書作成時に近接した時期に取得した株式に限られ、退職時に保有する全株式が対象になるわけではないと主張しました。
これに対し被告は、覚書は、退職時に原告らが保有する株式の全部を取得価格で会社に譲渡する合意であると主張しました。
原告らは、以下の点を主張して、合意は無効であると主張しました。
裁判所は、覚書の文言、作成の経緯、その後の原告らの行動などから、遅くとも平成21年10月26日頃までに、
原告らが退職等により従業員の地位を失った場合、その時点で保有する株式の全部を、原告らが取得した価格で会社に譲渡する合意
が成立していたと認定しました。
平成21年10月頃に覚書が作成された際には、その直後に新たに株式を取得する従業員だけでなく、当時すでに株主であった従業員も覚書に署名押印していました。
そのため裁判所は、それ以前に取得した株式についても覚書の対象に含める趣旨であったと判断しました。
覚書中の「全株」という文言についても、対象を退職時に保有する全株式と解することを妨げるものではないとしました。
なお、原告X1については、平成21年10月当時の覚書そのものが証拠として提出されていませんでした。
しかし裁判所は、X1自身が代表者Aの指示を受けて全従業員株主に覚書を配布し、署名押印を得る作業をしていたことなどから、X1のみが署名押印しなかったとは考え難いとして、同人も覚書に署名押印したものと推認しました。
また、原告X2が株式事務を担当し、株式の平均取得価格等を整理した資料を作成していたことや、原告X1が退職時に、
「覚書の通りに取得価格で会社に戻すことが理論的には正しいかもしれません」
という趣旨のメッセージを代表者に送っていたことも、裁判所の解釈に沿う事情とされました。
原告らは、覚書による合意は、会社法136条に基づく譲渡承認請求を事実上禁止するものであり、強行法規に反して無効であると主張しました。
しかし裁判所は、覚書1項は、対象株式が譲渡制限株式であることを確認的に定めたものにすぎないとしました。
また、覚書3項は、退職等の場合に従業員株主が会社へ全株式を譲渡するという合意です。
会社法上の譲渡承認請求制度は、株主が誰に株式を譲渡するか自体を規定する制度ではないため、この合意が譲渡承認請求制度を否定するものではないと判断しました。
原告らは、退職時の株式価値にかかわらず取得価格で会社へ譲渡しなければならないことは、従業員株主の投下資本回収を不当に制限するものであり、公序良俗に反すると主張しました。
これに対し裁判所は、次の事情を挙げました。
原告らが第5期から第13期までに受け取った配当金は、
と認定されています。
裁判所は、これらの事情から、取得価格で会社へ株式を譲渡する合意が、従業員株主の投下資本の回収を著しく制限するものとは評価できないとしました。
また、退職時の株式価値と取得価格が大きく乖離していたとしても、それは合意成立後の事情です。
合意時点で会社が将来の価格上昇を予想し、原告らを不当に害することを企図していたと認める証拠はないとして、この点も公序良俗違反を基礎付けるものではないと判断しました。
さらに、「少数株主から支配株主への不当な利益移転である」との主張についても、本件では株式が原告らから支配株主へ移転するのではなく、会社自身へ譲渡されるものであるとして退けています。
原告らは、他の退職者の中には取得価格より高い価格で株式を譲渡した者や、退職後も一部の株式を保有していた者がいるとして、原告らだけを取得価格による譲渡とすることは株主平等原則に反すると主張しました。
裁判所は、他の退職者については、退職時に覚書とは異なる取扱いをする旨の個別の合意が成立していたと認定しました。
一方、原告らについても、代表者から覚書とは異なる取扱いをする提案を受けていましたが、原告ら自身がこれを断っていました。
そのため、原告らについて取得価格による譲渡となったのは、例外的な取扱いについて別の合意が成立しなかった結果にすぎないとして、株主平等原則違反を否定しました。
裁判所は、原告らと会社との間には退職時の株式譲渡合意が有効に成立していると判断しました。
そのうえで、
により、原告らが退職時に保有していた全株式は会社に譲渡されたと認定しました。
したがって、原告らは口頭弁論終結時に会社株式を何ら保有していないとして、株主権確認請求をいずれも棄却しました。
ここからは、裁判所の判断そのものではなく、本判決から企業実務上どのような点に注意すべきかを考えます。
「取得価格で買い戻す合意は有効」と単純化してはいけない
まず、この判決を、「従業員株主と取得価格での買取りを合意しておけば有効になる」と一般化して読むのは危険です。
本判決では、
など、本件固有の事情を踏まえて判断されています。
したがって、同様の条項があるからといって、当然に同じ結論になるわけではありません。
覚書の文言そのものが紛争の原因になる
本件では、「全株」が何を意味するのかという文言の解釈自体が大きな争点になりました。
また、被告は取締役会非設置会社であるにもかかわらず、覚書には「取締役会の承認がある場合」と記載されていました。
裁判所はこれを「取締役の過半数の承認」と読み替えましたが、そもそも会社の機関設計と合わない契約文言を残しておくべきではありません。
覚書を作成する際には、
まで明確にしておく必要があります。
退職者ごとの例外的な取扱いは記録に残す
本件では、他の退職者について、取得価格より高い価格で譲渡した例や、一部株式を保有したまま退職した例が存在しました。
それでも株主平等原則違反とされなかったのは、他の退職者については覚書とは異なる取扱いをする旨の個別合意が成立していたと認定されたためです。
企業実務では、個別交渉の結果として例外的な処理を行うこと自体はあり得ます。
しかし、その理由や合意内容を残していないと、後から、
「なぜ自分だけ条件が違うのか」
と争われた際に説明が困難になります。
株式価値と取得価格の乖離だけで直ちに無効になるわけではない
本判決は、退職時の株式価値と取得価格が乖離していたとしても、それは合意成立後の事情にすぎず、そのことだけで公序良俗違反になるものではないとしています。
重要なのは、合意が成立した時点の事情です。
本件では、会社が将来の株価上昇を予測したうえで、従業員株主を不当に害することを企図していたと認める証拠がありませんでした。
したがって、同じ取得価格による買取条項であっても、合意時の会社・株式の状況、制度の目的、従業員への説明、利益配分の実態などが異なれば、別の評価になる可能性があります。
従業員持株会が関係すると、さらに検討事項が増える
実務では、従業員が直接会社株式を保有する場合だけでなく、従業員持株会を通じて株式を保有しているケースもあります。
持株会が関係する場合には、本判決とは別に以下の論点が生じます。
持株会が関係する案件では、規約だけを見るのではなく、その後の実際の運用まで確認する必要があります。
参考となる従業員持株会の裁判例
従業員持株会の退会時の精算等については、これまでにも多数の裁判例があります。
例えば、東京地裁平成10年8月31日判決では、持株会の退会時の払戻価格を一定額に固定する規定の有効性が争われました。
札幌地裁平成14年2月15日判決では、持株会理事会が決定した精算価格の合理性が問題となり、合理的な算定方法による価格決定であることが求められました。
東京地裁平成16年10月4日判決では、規約が「時価」での精算を予定していたにもかかわらず、実際には拠出金等のみを払い戻していたことが問題となっています。
東京地裁平成19年7月3日判決では、規約上の定めと長年の実際の運用から、一定価格による買取りについて黙示の合意が成立していたかが問題となりました。
東京地裁平成20年3月14日判決では、持株会が会社とは独立した法的主体であるかどうかが問題となり、持株会と会社の責任主体を区別して判断しています。
これらの裁判例からも、従業員持株制度については、
「規約に何と書かれているか」だけでなく、「実際にどのように運用してきたか」が重要になる
ことが分かります。
なお、これらは本判決とは異なる事案であり、それぞれ個別の規約、運用、価格決定方法等に基づく判断です。結論を単純に一般化することはできません。
従業員株主や従業員持株会のある会社では、次の点を確認しておくことが重要です。
定款、覚書、株主間契約等を照合し、下記諸点の整合性を確認してください。
特に、取締役会非設置会社であるにもかかわらず「取締役会の承認」と記載されているなど、現在の機関設計に合わない条項は修正しておくべきです。
従業員が複数回に分けて株式を取得している場合、以下を明確にしておく必要があります。
株式分割・株式併合があった場合の計算方法についても定めておくことが望ましいです。
覚書や契約書については、単に署名押印を取得するだけでなく、以下の経緯を記録しておくことが重要です。
覚書とは異なる価格で買い取ったり、一部の株式保有を認めたりする場合には、その内容と理由を記録してください。過去の取扱いとの違いについて説明できる資料を残しておくことが、後日の紛争防止につながります。
持株会については、下記諸点を確認しましょう。
規約上の精算方法と実際の運用が異なっていないかを定期的に点検することも重要です。
持株会がある場合には、さらに以下の点を整理しておく必要があります。
会社が退職者から直接株式を取得する場合には、契約上の買取条項だけでなく、自己株式取得に関する会社法上の手続や財源規制も別途確認する必要があります。
本件でも、会社は臨時株主総会で自己株式取得を決議したうえで、代金を供託しています。
退職日直前になって初めて株式の扱いを確認すると、紛争になりやすくなります。
従業員株主から退職の意向が示された段階で、以下の点を整理し、早期に対応方針を決めることをおすすめします。
本判決は、従業員株主が退職した場合に、保有する株式の全部を取得価格で会社へ譲渡する旨の合意について、その成立を認めました。そして、会社法136条違反、公序良俗違反、株主平等原則違反を理由とする無効主張をいずれも退けました。
会社の制度設計、運用によっては、「従業員株主が退職した場合に、保有する株式の全部を取得価格で会社へ譲渡する旨の合意」は有効に機能することを示した重要な裁判例といえます。